第3回演奏会 曲目紹介

Ⅰ AVE MARIA


Ave Maria は、ローマカトリック教会で「天使祝辞」と呼ばれるキリスト教でもっとも代表的な聖母賛歌。
詞の前半はルカによる福音書から採られたものである。西ヨーロッパでは7世紀ごろ典礼に用いられていた。その後14世紀に「イエズス」の名が、そして15世紀に「サンタマリア」以下の後半の詞が追加された。ルネッサンス時代はもちろんバッハ、シューベルト、現代に至るまで数々の名曲が作られている。なお、今回のプログラムでは「Ave Maria」と表記したが、Gesualdoの曲名のみ原題は「Ave dulcissima Maria」である。

 Cantus Gregorianus とはラテン語で「グレゴリオ聖歌」。ローマカトリック教会の伝統的な単声典礼聖歌。グレゴリオ聖歌の起源はイエス・キリストの時代まで遡るが、この名前は590年~604年に在位した教皇グレゴリウス1世が行った教理、典礼、聖歌統一の多大な業績に由来している。今日伝えられるグレゴリオ聖歌はこの時代のものとは異なるが、少なくとも8、9世紀ごろのものがリズムを変えて歌い継がれていると言われている。

 Tomas Luis de Victoria (トマス・ルイス・デ・ヴィクトリア:1548?年-1611年)はスペインの作曲家で、古都市アビラの少年聖歌隊を経て17歳の頃ローマへ留学し、パレストリーナの指導も受けたといわれる。1575年に司祭の資格を取得して以降、次第に深い信仰心をあらわし、1585年にマドリードの修道院で司祭兼音楽家に任じられ、一生を神に捧げる宗教活動と作曲に没頭した。ミサ20曲、モテット50曲、ほか約180曲が残されているが、いわゆる世俗曲は1曲もない。練達のポリフォニー技巧と、力強く底深い情感の表出に優れたスペイン宗教音楽の最高峰である。

 Giovanni Pierluigi da Palestrina (ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ:1525?年-1594年)はイタリアローマ近郊の生まれで、16世紀の最も有名な教会音楽作曲家。一般に生誕地に因んでパレストリーナと呼ばれる。ローマで聖歌隊員を務めたが、変声期となって帰郷しオルガニスト兼歌手となる。結婚後の1515年教皇ユリウス3世に認められサンピエトロ大聖堂の楽長となるが、教皇の死後妻帯者の故にその職を追われる。その後、サンタ・マリア・マッジョーレ教会楽長やカペラジューリアの学長を務めるなど公的には成功するが、疫病により2人の息子を、続いて妻をも失う。妻の死後8ヶ月で富裕な毛皮商の寡婦と再婚したのは、財政的援助を得て自作品を出版したいとの強い思いからだったといわれている。1581年以降、「バビロン川のほとりに」「アルマ・レデンプトリス」「ソロモンの雅歌」「スタバト・マーテル」などの名曲が相次いで世に出ている。彼の作曲手法は、パレストリーナカーブと呼ばれる緩やかな起伏を描いて流れる旋律に最大の特徴があり、鋭い飛躍や半音階的進行は避けられ、進行上に現れる不協和音も円滑に解決されている。

 Jakob Arcadelt (ヤーコプ・アルカデルト:1505?年-1568年)はフランドル(今のベルギーからフランス北部)の作曲家であるが、生涯の大半をイタリアで過ごした。1540年から1551年までローマ教皇庁礼拝堂に歌手として奉職し、その後は1560年までフランス王室礼拝堂で活躍したが、生前より多数の作品が人気を博した。その作品は世俗歌曲が中心で、シャンソン126曲とマドリガーレ200曲以上が現存する。マドリガーレはイタリアの和音的な歌曲様式と、フランドル楽派の対位法的様式が融合している。「アヴェ・マリア」は3声のシャンソンから編曲されたものである。

Carlo Gesualdo (カルロ・ジェズアルド:1561?年-1613年)はイタリア生粋の貴族で作曲家。ナポリのヴェノーサ公爵家に生まれ、1586年兄の死に伴って公爵の地位につき、ペスカーラ侯爵の娘マリア・タヴァロスと結婚。ところが1590年妻の不貞を知るところとなり、決闘により愛人ともども殺害するという数奇な運命を辿った作曲家である。しかし再婚後は優れたマドリガーレを次々と発表。大胆な半音階的和声進行によって愛と死への憧れを激しく歌い上げている。マレンツィオ、モンテベルディとならぶ3大巨匠の一人と称される。



Ⅱ 日本民謡


大島節 は明治の初め、伊豆大島野増村で茶揉み唄として歌われた「野増節」が始まり。新島、神津島でも「島節」として歌われたが、大島が観光地として開けるとともに「大島節」として全国に有名になった。三原山の噴煙「御神火」、島の娘「アンコ」、そして「椿」が大島の象徴。

ソーラン節 はニシン漁で歌われる「沖揚げ音頭」の別名。その掛け声から現在の名前の方が有名になった。北海道を代表する労作歌で、漁師の歌らしく規則的リズムと健康な力強さを持っている。ニシン漁では舟こぎ(船出)、網起し、切声、沖揚げ、いやさかの各音頭が作業に従ってひとつの組曲のように歌われるが、北方の荒海で鍛えられた声にふさわしい力強さと美しさを持っている。

五木の子守歌 は熊本県球磨郡五木地方の民謡であるが、隷属的農民の娘たちの奉公の悲しみを歌った歌詞と、哀感に満ちた旋律が人の心を捉え、日本民謡の代表曲のひとつとなった。小作人は乞食同然の「勧進」であり、地頭であるだんなは「よか衆」と呼ばれた。「花は何の花つんつん椿」とある花も路傍の花である「つばな(茅の花)」の間違いという説もある。

最上川舟唄 は北海道や新潟の船乗りが酒田へ来て広めた追分を起源とする酒田追分と、最上川上流の船頭唄を組み合わせて昭和11年にでき上がった唄である。長崎県平戸付近の櫓漕ぎ歌が伝わって「江刺追分」の前歌となったとされる「エンヤコラ系」の追分調の部分と、拍節に乗った船頭の掛け声の部分を上手く組み合わせてあるのが特徴。最上川は富士川、球磨川と並ぶ日本三大急流のひとつ。



Ⅲ 女声合唱




Ⅳ Toivo Kuula


Toivo Kuula (トイヴォ・クーラ:1883年-1918年)はフィンランド西海岸オストロボスニア地方のヴァーサという町に生まれた。17歳から4年間ヘルシンキ音楽学校でノヴァ-チェク他にヴァイオリンと音楽理論を学び、「フィンランドのベートーベン」を目指すが、父親の許しを得られず一時帰郷。この頃最初の合唱作品が生まれている。友人の作曲家パルムグレンなどの強い勧めに2年後再度学校へ戻り、1907年には18歳年上のシベリウスに作曲を学んでいる。その後ポローニャ、ライプツィヒ、パリと留学しながら研鑚を重ね、ドビュッシー、デュカス、ショーソン、マニャールなどの影響を強く受けることになる。

クーラは、シベリウスの影響を大きく受けた一人ではあるが、成功したジャンルはシンフォニーや交響詩ではなく、ヴァイオリンや歌曲、合唱曲などの分野であり、小品できらりと輝く作品が多い。しかし、フィンランドがロシアから独立を勝ち取った翌1918年の内戦のさなか、クーラは1発の銃弾に倒れ34歳でその生涯を終えてしまう。作曲家としての活動期間は1904年からわずか14年間しかなく、約70曲の合唱曲、20曲の歌曲、その他若干の室内楽曲やオーケストラ曲があるに過ぎない。

クーラが生きた時代はロシア支配に抗して民族の自覚を求める啓蒙的な音楽が多く創られた。彼の作品にもイデオロギー的団体のためのマーチが多くあるが、他方民族ロマン主義的な作品や印象主義的作品などには、深く大きく流れる川のような激しさと、夜空に瞬く星のような輝きとが入り混じっている。
しかしクーラの特色は、なんといっても暗く、感傷的な美しい旋律にある。その印象的なメロディーと、透明で色彩豊かなハーモニーが織りなす合唱作品の数々は、まさに北の空に輝くオーロラに喩えるべきであろう。